代表部の仕事:日本とジュネーブをつなぐWTO紛争処理の実務

令和3年10月5日

日本とジュネーブをつなぐWTO紛争処理の実務
 

 近藤 亮作 一等書記官

 

 私は、コロナ禍の2020年6月に当代表部に着任し、それ以来、代表部内の経済部でWTO(世界貿易機関)の紛争処理の業務を担当しています。WTOでの紛争処理は、Dispute Settlementの頭文字を取って「WTO DS」と言われます。私は元々、国内での訴訟やその他企業法務問題に、弁護士として、法律事務所や民間企業内から携わっていましたが、2017年4月に外務本省の任期付き職員として任用されて以来、WTO協定や経済関連協定に関する紛争処理に、日本政府の一員としての立場から携わってきました。以下では、WTO協定の中での紛争処理の役割や新しい課題、そして東京とジュネーブの両所での業務経験に触れながら、当地での代表部職員としての仕事について、ご紹介したいと思います。

1 WTOの役割と持ち上がる新たな貿易・通商問題
 WTOは、関税などの貿易障害をできる限り減らし、国際貿易関係における差別的な待遇を廃止することなどを目指し、国際条約であるマラケシュ協定によって、1995年に設立されました。現在、164のメンバー国・地域があります。独立した関税地域であっても、国際通商等について完全な自律性を持っている限りにおいて、WTOのメンバーになることができます。マラケシュ協定には様々な「附属書」があり、モノに関する通則的な通商ルールを規定したGATT 1994(千九百九十四年の関税及び貿易に関する一般協定。参照リンク:外務省ウェブサイト)を始めとして、全メンバーを法的に拘束するモノ、サービス及び知的財産権に関する協定が約15本、規定されています。これらは、メンバー国・地域の権利や義務を定めるという意味で、実体的なルールを構成しています。
 


WTO本部のメインゲート(筆者撮影)
 

 WTO協定はすべて国際通商・貿易問題に関するものですが、適用される対象は多岐に及びます。たとえば、モノとしては、天然資源産品や工業製品に限られません。コロナ対策に欠かせないワクチンの円滑な国際流通の問題や、魚の乱獲を抑えるための補助金ルールの問題なども、WTOで現在議論が続いている重要な問題の例です。いま産業界からも注目される脱炭素に関する各国・地域の措置も、モノの輸出入に関する限りWTO協定に整合的でなければなりません。今後は、環境問題や人権問題といった「自由貿易」とは異なる各メンバー国・地域の様々な価値観や、安全保障といった国家の根本的な利益を、国際貿易・通商とどのように調和していくかが、益々重要になっていき、WTO紛争処理の場を含めた様々な場で議論されていくと考えられます。
 当代表部の経済部では、外務省を含め各省庁から赴任してきている職員が、WTOの多岐にわたる個別の分野のエキスパートである担当官として、協定交渉や通報、情報収集などの職務に日々あたっています。その中で、私が担当している紛争処理の分野は、WTOの各分野に横断的に関連している点、ある意味で日本の裁判のように特殊な手続きが細かく決まっている点で、少々特殊な業務分野といえるかも知れません。他の経済部員とも連携しつつ、WTO外交における日本のコンタクト・ポイントの一員として、日々仕事にあたっています。

2 WTO 紛争処理の意義
 さて、WTOには、大きく3つの機能があります。(1)国際通商のルール(協定)の交渉、(2)そのルールの履行の監視、(3)そしてメンバー間のルール違反を巡る紛争の解決です。世界経済を支えるインフラとしての自由で差別のない貿易のために、これら3つすべての機能が、あたかも歯車のように連動して機能しています。ジュネーブで執務をしていると、そのことが実感としてより良く理解できます。
 3つの機能のうち、たいてい最後に挙げられるのが(3)の紛争処理機能です。ではなぜWTOの紛争処理が、一つの欠かせない歯車といえるのでしょうか?国際貿易・通商のルールを作ること、また、そのルールを各メンバー国・地域が尊重して順守してさえいれば、紛争処理の意味はあまりないのではないかと思われる方もいらっしゃるかも知れません。
 しかし、WTOの紛争処理機能は、各メンバー国・地域に、WTOのルールを守らせるために欠かせない手続的な機能を担っています。
 ニュースでは、しばしば、貿易・通商の文脈で、「A国がB国に対して対抗措置を発動した」ということを耳にしないでしょうか?「対抗措置」という言葉は、報道等では様々な文脈で多義的に使われることがあるので注意が必要です。しかし、WTO紛争処理との関係でいえば、「B国が、WTO協定のルール違反を是正しなかったので、A国が対抗措置として、B国からの輸入産品にあるパーセンテージの追加関税を課すことにした」といった場合に使われます。そして、あるメンバーが、WTOのルールに違反したかどうかは、必ず、パネル(小委員会(やその上訴審である上級委員会))によって判断されなければならないことになっています。つまり、ある課税や政策などの措置を行ったメンバーが、(ある決められた期間内に)そのWTOのルール違反を正すことができなければ、そのメンバーの産品だけに一定の不利な関税を課すことなどができるのです。そのような事態になれば、輸入国側の関税が上げられてしまうため、違反をしたメンバー国・地域の産業は、国際競争において価格面で不利に扱われます。違反をしたメンバーが措置を是正すれば、対抗措置は直ちに取り除かれる決まりです。
 


 パネル会合が行われるWTO本部内のひと部屋(筆者撮影)
 

 このように、WTO紛争処理制度は、あるメンバーの政策や関税措置などが、メンバー間でWTOのルールに合っているか合っていないかという紛争を解決する唯一の枠組みです。また、申し立てをしたメンバーが「勝訴」したのに、「敗訴」したメンバーが万が一措置を是正しなかった場合には、対抗措置をもって措置の是正を促すという、WTOのルールを守らせるための重要な手続として欠かせない存在です。

3 WTO紛争処理はどれくらい利用されているか?
 WTO紛争処理がどれくらい利用されているかをご説明しようと思います。各ケースには、「DS〇〇」という形で通番が振られます。1995年1月に協議要請された初のケース(DS1)は、シンガポール産のポリエチレン等の石油化学製品に対してマレーシアが実施した輸入禁止措置についてのケースでした。
本稿掲載の2021年10月時点の最新のケースはDS606です。サウジアラビア産のモノエチレングリコールという産品(ポリエステル繊維やペット樹脂などの原料になります)の輸入について、EUがアンチ・ダンピング税の暫定課税措置を実施しており、これについて、サウジアラビアが協議を要請しました。WTO発足以来26年余りの間に、600件以上のケースがWTO紛争処理に付されていることになります。WTOのウェブサイトからは、時系列的なDS1から最新ケースまでの一覧を簡単に見ることができ、各ケースをクリックすれば、事案の概要、公開されている文書を辿っていくことができます。
 アンチ・ダンピング税とは、典型的には、ある輸出国の産品が、その輸出国内での販売価格よりも安く外国に輸出され、輸入国側の産業にダメージが発生してしまう場合に、WTOのルール上輸入国側が特別に課税することが許されている関税です。
 このアンチ・ダンピング税に典型的ですが、貿易の障害になる関税や政策、措置を実施するためには、多くの場合、厳しくそして細かいWTOのルールに沿って行われなければならない決まりとなっています。単に、各国が制定している国内法に従っているだけでは、WTOのルール上は十分でないことがあります。しかし、そうしたルールが守られていたかどうかについて、当事国間で争いになることもしばしばです。また、アンチ・ダンピング協定やGATT 1994といったWTO協定を構成する各協定(条約)は、各メンバーの共通のインフラといえ、当事国以外の「第三国」もその解釈や適用、判断に大きな利害を持っています。そこで、WTO紛争処理のパネルや上級委員会の審理過程では、「第三国」にも意見を表明する機会が与えられており、実際に、日本をはじめとする多くの国が、多くのケースで、「第三国」として意見を述べています。
 


筆者(WTO本部内にて) 
 

 WTOの紛争処理にケースを持ち込むのはWTOのメンバーである国や地域の政府ですが、不公正な貿易措置による影響を直接被るのは、問題となっているモノを製造したり、サービスを輸出したりしている個々の企業です。日本においても、政府がWTOの枠組みを利用して不公正な貿易障害を取り除くためには、そうした個々の企業や業界団体からの働きかけが重要な要素です。提訴の段階だけではなく、DSのケースで第三国として日本が意見を述べる機会にも、問題となっているモノを製造する企業から政府に対して要望が出される場合もあります。

4 立ちはだかる「上級委問題」
 ただ、このように多く利用されてきているWTO紛争処理制度は、現在、重大な試練に直面しています。2019年12月をもって、任期中の上級委員の人数が審理に最低限必要な3名を下回ったため、上級委員会による上訴審理プロセスが全件について停止してしまっているのです。これは「上級委問題」と呼ばれています。停止された理由は、米国が、上級委員会がWTO協定の文言にないルールを導き出していること等、その運営のあり方に長年にわたり懸念を有しており、任期切れの上級委員の選任プロセスを開始するために必要なコンセンサス決議に、賛同していないためです。
 上級委員会での審理に代えてMPIA(多国間暫定上訴仲裁アレンジメント。参照リンク:外交青書令和3年版156ページ)と呼ばれる仲裁手続きを上訴として活用しようとする動きが一部メンバーには見られますが、根本的な問題解決はまだこれからという状況が続いています。パネル手続による紛争処理や、それに先行する二国間協議のプロセスは、これまでどおり行われています。

5 ジュネーブ代表部ならではの仕事
 さて、WTO紛争処理に携わる日本の政府職員の仕事は、外務本省とジュネーブ代表部とでは、共通する要素もありますが、異なる部分も多いので、私自身の両者での経験を踏まえて、共通点と違いを簡単にご説明します。
 まず、外務本省側では、パネルや上級委員会に提出する要請書や申立書(あえて例えれば、日本の裁判でいうところの訴状や上訴書面のような書類)や、意見書(準備書面のような書類)・証拠書類を、関係各省や課室と相談の上準備・作成します。これらのペーパーワークに加えて、実際にパネリストや上級委員らの前での会合や口頭聴聞と呼ばれる手続に出張して出席し、かなり技術的で細かいWTO協定上の論点について日本の意見を述べたり、その場で出される質問に口頭で回答したりします。WTOに提出する意見書等をまとめる際には、いま私がいる当代表部とも毎日のように綿密に連携し、論点について議論を深め、主張のポイントを整理していました。
 ちなみに、コロナ禍がジュネーブだけでなく世界で広がった2020年中頃以降、残念ながら、パネルや上級委員会の会合が延期されることが多くなり、最近はインターネットを通じたバーチャル形式で実施されるようになりましたので、前記のような実地での対面のやりとりは少なくなってしまいました。バーチャル形式での会合は、世界中どこからでも移動時間もなく参加できるメリットがある一方で、関係者がバラバラの地点から接続すると代表団内(チーム内)での瞬時の相談が難しかったり、対面であれば届くはずのパネリストや上級委員との代表団との間の表情や様子、表現の強弱といったニュアンスのやり取りが伝わりにくいという不便さも、感じないことはありません。バーチャル形式の会合の実務は、今後もしばらくは試行錯誤が続く可能性があります。
 一方、現在在籍しているジュネーブ代表部側では、前記のようなパネルや上級委員会の会合に出席し、本省からの出席者を事前・事後のWTO事務局とのやりとり等を含めサポートすることが重要な仕事です。紛争処理について行われる月例の会合(WTO事務局内で紛争処理を管理する「紛争解決機関」の会合)の対応もあります。しかし、WTO事務局や他の政府代表部の関係者と知り合いになり、日頃から様々な事について情報を収集したり、他の国や地域との間で意見交換を実施することも重要な仕事です。紛争処理だけをとっても、ジュネーブ代表部には各国の担当官が集まり、またWTO本部が所在するため、本省では得られない情報や発見があり、それらを本省に報告します。また、本省に在籍していた当時とは逆の立場で、パネルプロセスでの相手国やWTO事務局の会合での生の反応といった現場でしか得られない感覚も踏まえて、特定のDSのケースの進め方や法的な論点について、本省の担当者と議論し、論点整理のサポートをします。
 
 このように、国・地域同士の貿易・通商に関する紛争処理に関わる在外での仕事は、いわゆる典型的に外交的な仕事のような側面だけではなく、細かな法的な思考や処理が必要な場面が多い点で、本省での業務に共通点も多くあります。いずれも、日本の国際法上の国益の実現に努める有意義な仕事です。日本の企業活動や経済、国民の生活、ひいてはより豊かな世界経済の持続的な発展のため、法律知識と企業での勤務経験で得た感覚も活かし、今後も精力的に業務にあたって参りたい思います。