代表部の仕事:新たな「デジタル貿易」秩序の模索-AI時代のWTOと「日本」の役割-

令和8年10月23日
新たな「デジタル貿易」秩序の模索-AI時代のWTOと「日本」の役割-
 
 
石川 宏一 一等書記官
 
 「デジタル貿易」という言葉を聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。今まさに手にされている外国製のスマートフォンだろうか。それとも、海外デジタル企業が提供するAI検索エンジンだろうか。あるいは、海外旅行先でも使える日本企業発行のクレジットカードだろうか。もしかすると、地球の裏側にあるお気に入りのワイナリーが運営する小さな通販サイトを想像する人もいるかもしれない。WTOに「デジタル貿易」に関する共通の定義は無い。にもかかわらず、我々の日々の生活はデジタルに関する「モノ」と「サービス」に囲まれている。そして、そのような「モノ」と「サービス」の多くは、何らかの形で国境を越えた流通の下に成立しており、殆ど常に「貿易」が介在する。
 
 WTOでは、このような「デジタル貿易」に関するルール作りのための挑戦が続けられている。本稿では、そうしたルール作りの現状と課題、日本が果たす役割について、当代表部担当官の目線からご紹介したい。
 
 1 電子商取引に関する協定とその暫定的な実施

 
2017年12月にアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたMC11(第11回WTO閣僚会議)において、日本を含む72のWTOメンバーが共同声明イニシアチブ(JSI:Joint Statement Initiative)を立ち上げ、日本は、豪州やシンガポールとともに、電子商取引JSIの共同議長を務めている。2019年に正式に開始された5年を越える交渉ののち、2025年2月に交渉終結を宣言しつつ、「電子商取引に関する協定(ECA)」をWTO協定を構成するルールの一部とすべく、WTOにおける常設の意思決定機関である一般理事会による決定を要請した。
 
 WTOにおける意思決定は、前身であるGATTの慣行を引き継ぎ、コンセンサス方式(参考1)が維持されており、ECAに関する上述の決定についても、全メンバーによるコンセンサスが要求されているが、ごく一部のメンバーの反対により成立しなかった。WTOでは、同一の少数メンバーの反対により、有志国による他のプルリの取組(参考2)も阻止されており、日本を含む関係国の努力にかかわらず、このような状況が固定化している(参考3)。

 こうした状況を受け、今年3月にカメルーン・ヤウンデで開催されたMC14(第14回WTO閣僚会議)において、67メンバーが参加して、ECAを暫定的に実施する閣僚宣言が採択された。正式なWTO協定に組み込まれる前にもかかわらず、45のメンバーが議会承認などを経て、受諾の意思を表明したタイミングで、参加メンバー間でこの協定が発効する。「デジタル貿易」について、異なる地域を跨ぐグローバルなルールが初めて成立することになる。


MC14での閣僚宣言採択後に他代表団とともに
 
 一方で、このような新しいルールメイキングの在り方は、閣僚宣言に参加するメンバーにとっても、参加しないメンバーにとっても真新しいものであるため、WTOでは今もメンバー間での活発な議論が継続している。私自身も日本を含めた参加メンバーの立場や暫定実施の必要性を非参加メンバーに伝えるべく、他の代表団と継続的に意見交換を行っており、既存の枠組に無い新たなルールを作る手応えと難しさの両方を日々感じている。

 2 電子的送信に対する関税不賦課モラトリアム
 
 
今年3月のヤウンデでのMC14では、「デジタル貿易」を長年支えてきた枠組が失効するという出来事もあった。この「電子的送信に対する関税不賦課モラトリアム」と呼ばれる枠組は、コンテンツ配信や金融取引などの電子的送信に関税を課さないというマルチの政治的約束で、その歴史の始まりは1998年に遡る。これまで、通常2年に一度開催されるWTO閣僚会議のたびに更新されてきたが、MC14では、蒸し暑いヤウンデでの連日未明まで続いた交渉にもかかわらず、コンセンサス成立には至らなかった。
 
 MC14に先駆けたジュネーブでの準備会合やヤウンデでの議論においては、過去には無かったような前向きな提案や画期的な譲歩も見られたものの、そうした動きが最終的には具体的な成果に結びつかなかった。このことは、2年近くをこの議論に費やしてきた担当官として痛恨の極みとも言える結果であった。同時に、166の異なる地域・経済規模・発達度を持つメンバーが、益々複雑化する現下の国際情勢において、一つの合意を達成することの難しさについて身を以て体験する経験となった。
 
 なお、166メンバーが参加するマルチの時限的な枠組が失効するなか、日本は、他の有志国とともに、企業と消費者の予見可能性を維持する観点から、プルリの無期限での電子的送信に係る関税不賦課を宣言する共同声明(参考4)を発表している。
 


WTO本部での関係会合で発言する筆者
 
 3 AI、デジタルを支える新たなルールの模索

 
ここまで、WTOにおける「デジタル貿易」に関するルール作りの取組についてご紹介してきたが、実はこれまでにご紹介してきた取組がカバーしていないルールも、日本を含む各国が二国間や地域毎に取り交わしているFTAやEPAなどではカバーされていることが多々ある。その意味においては、WTOにおける「デジタル貿易」のルール作りには、まだまだ伸び代があるとも言える。日本が共同議長を務めるECAにその受け皿となることを期待する声も内外の関係者との意見交換を行うたびに耳にする。

 AIに関して、他の国際機関におけるのと同様、WTOにおいて関連する議論を期待する声はWTOで大多数を占める途上国を中心に小さくない。WTO事務局は、去年の世界貿易報告書でAIをテーマにしたのに引き続き、今年9月にはAIをテーマにした1日イベント「World Trade & Tech Day」を初めて開催した。当代表部や私自身も、こうした新しい取組にできる限り前向きに取り組むべく、事務局や関心を持つメンバーと協働している。

 今回ご紹介した取組の例だけからでも分かるように、WTOにおける新しいルール作りは、世界が複雑さを増すなか、一筋縄で物事が進むようなものではない。しかしながら、WTOルールが第二次世界大戦後の日本と世界の経済発展を支えてきたことは事実であり、AIを含む「デジタル貿易」に関するルール作りへの期待も根強い。日本の産業界やそこに携わる人々、様々なモノやサービスを消費する国民にとって、より良い国際経済秩序を実現するための仕事が続けられている。

 (参考1)コンセンサス方式
 ある決定を行う際に、その会合に出席しているいずれのメンバーもその決定案に反対しないことを求める方式。現在166のメンバーが参加するWTOにおいて、1メンバーのみが反対した場合であっても、その決定は成立しない。WTOルールは、国内規制の制限など、国家主権に対する制約を伴うものも含むため、このような一見して厳格な意思決定方式が維持されている。
 
 (参考2)
 全メンバーが参加する取組を「マルチ」と呼ぶのに対し、有志国による取組を「プルリ」と呼ぶ。コンセンサス方式に起因する集団的な意思決定の難しさを踏まえ、マルチではなく、プルリによる成果実現への期待が高まったが、新たなWTOルールを作る際は、引き続きコンセンサスの成立が通るべき関門であることには変わりがないのが現状。
 
 (参考3)
 意思決定の在り方を含むWTO改革にも、当代表部は大きな貢献をしているが、こうした取組の紹介は、別の職員による投稿に譲りたい。
 
 (参考4)
 この共同声明は、日本も参加した当初の発表以降、参加メンバーを増やしている。本稿掲載時点の最新版(第4改訂版)については、こちらを参照。