ジュネーブの国際機関で活躍する日本人職員 国連訓練調査研究所(UNITAR)隈元美穂子(くまもと みほこ)さん
令和6年2月19日

まずは、現在のお仕事を教えてください。
UNITAR本部で、繁栄局長を務めています。つい先日からは、UNOSATという衛星画像分析の部署の局長も兼務することとなり、忙しい毎日を送っています。
UNITARはどのような機関ですか。
国連組織の中では珍しく、研修を専門にしている機関です。開発途上国を対象にSDGs実現を目的にして、政府、市民団体、民間セクターなど幅広い層に研修を実施しています。研修専門ということで、成人教育の方法論や、コロナ以降は対面からオンライン・ハイブリッドの研修に実施方法を切り替えるといったデジタル技術など、効果的な大人の学びに対して豊富な知見を有する職員がそろっています。
隈元さん局長を務める「繁栄」局、インパクトのある名称ですが、具体的にはどのようなプログラムを実施しているのでしょうか。
UNITARはSDGsの実施を大きな目標に掲げており、それに即した部門構成になっています。繁栄(Prosperity)の他に、Peace、Planet、Peopleといった局もあります。
繁栄局の活動の中核は、より良い職、経済活動です。やはり、安定した仕事、搾取されずに権利が保障され、自分の仕事に誇りが持てる、そういった仕事に多くの人が就ける、ということが世界の繁栄や安定のためには重要です。開発途上国に目を向けると、中小企業や自営業で働いている方が大半を占めていて、中でも厳しい環境にあるのが、女性・若者。こういった方に注目して、起業家訓練、リーダーシップ研修を行ったり、近年急速にニーズが増えてきているデジタルスキルの研修を行ったりすることで、こうした方々の繁栄の手助けをしています。
UNITAR本部で、繁栄局長を務めています。つい先日からは、UNOSATという衛星画像分析の部署の局長も兼務することとなり、忙しい毎日を送っています。
UNITARはどのような機関ですか。
国連組織の中では珍しく、研修を専門にしている機関です。開発途上国を対象にSDGs実現を目的にして、政府、市民団体、民間セクターなど幅広い層に研修を実施しています。研修専門ということで、成人教育の方法論や、コロナ以降は対面からオンライン・ハイブリッドの研修に実施方法を切り替えるといったデジタル技術など、効果的な大人の学びに対して豊富な知見を有する職員がそろっています。
隈元さん局長を務める「繁栄」局、インパクトのある名称ですが、具体的にはどのようなプログラムを実施しているのでしょうか。
UNITARはSDGsの実施を大きな目標に掲げており、それに即した部門構成になっています。繁栄(Prosperity)の他に、Peace、Planet、Peopleといった局もあります。
繁栄局の活動の中核は、より良い職、経済活動です。やはり、安定した仕事、搾取されずに権利が保障され、自分の仕事に誇りが持てる、そういった仕事に多くの人が就ける、ということが世界の繁栄や安定のためには重要です。開発途上国に目を向けると、中小企業や自営業で働いている方が大半を占めていて、中でも厳しい環境にあるのが、女性・若者。こういった方に注目して、起業家訓練、リーダーシップ研修を行ったり、近年急速にニーズが増えてきているデジタルスキルの研修を行ったりすることで、こうした方々の繁栄の手助けをしています。

デジタルスキルの研修は、ウクライナからの避難民の方にも実施していましたよね。
そうなんです。他にはアフリカでも同種の研修を実施しています。
UNITARは広島事務所がありますが、中国・四国地方唯一の国連機関ということで、どういった特色がありますか。
広島事務所も繁栄局に所属しています。広島ならではという意味では、核軍縮・不拡散の研修が挙げられます。被爆地である広島には、世界の核軍縮に貢献していきたいという強い思いがあり、こうした思いをUNITARとして後押しできるのは有意義なことだと感じています。
様々な研修を通じて感じるのは、何事も人が基盤であるということ。人の学びや新たな発見をお手伝いすることは、非常にやりがいのある仕事です。
そうなんです。他にはアフリカでも同種の研修を実施しています。
UNITARは広島事務所がありますが、中国・四国地方唯一の国連機関ということで、どういった特色がありますか。
広島事務所も繁栄局に所属しています。広島ならではという意味では、核軍縮・不拡散の研修が挙げられます。被爆地である広島には、世界の核軍縮に貢献していきたいという強い思いがあり、こうした思いをUNITARとして後押しできるのは有意義なことだと感じています。
様々な研修を通じて感じるのは、何事も人が基盤であるということ。人の学びや新たな発見をお手伝いすることは、非常にやりがいのある仕事です。

2023年11月までは広島事務所長も兼任されていました。特に、2021年の秋からはジュネーブと広島を行ったり来たりの二拠点生活で、相当大変だったのではないでしょうか。こうした中で、ワーク・ライフ・バランスはどのように取られていましたか。
難しい質問です。正直、自分は今でもワーク・ライフ・バランスが完全に取れているとは思わないです。2021年の秋からは、おおまかに言うと、夏・冬は広島、春・秋はジュネーブという生活をしていました。なので家族と仕事の両立とは程遠いのが現実でした。救いになったのは、夫も娘も自分の仕事中心の生活に理解を示してくれたことです。離れているときは毎晩テレビ電話で話をして、夫が家で娘を見てくれていました。日本でよくあった、父親が帰ってこなくて母親がワンオペ育児、の逆状態でした。
2拠点生活が終わってジュネーブ常駐になってからも、1年の半分以上は出張で世界を飛び回っていますが、仕事とプライベートのバランスを大切にしていきたいと思っています。今、部下が130人くらいいるのですが、部下には自分の働き方を示して、彼ら彼女らの良いお手本にならなければいけないという意識を持っています。特に若い世代は、非常に仕事と私生活のバランスを重視しているし、「なぜこの仕事をするのか」という意識も強いです。そういった部下達に対して、隈元美穂子という一人の人間としてどういう風に人生を生きているのかを示す必要があるだろうなと考えています。
子供と過ごせる時間も非常に限られていますが、仕事が終わってから子供が寝付くまでの短い時間を、どれだけ質の高いものにするかに気を遣っています。子供はあっという間に大きくなっていくので、今の瞬間を大切にして、子供の悩みをできるだけ聞いてあげて、安心感を与えることを大事にしたいと思っています。
国際機関で働こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
小学校の教科書です。小学校の授業で、国連のことが出てきますよね。あのときに、こんなところで働けたら良いなと思ったんですよ。そうそう、小学校の学年末の文集に、将来の夢として「外交官」と書いたこともありました。
でも、自分は福岡と大分で育ったのですが、当時は周りに国連で働いている人も外交官もいなかったし、何の情報もなかった。情報が無いと道筋が見えない。やはり情報や人のネットワークは重要ですよね。
その後、高校生の時、アメリカの大学への留学を決意します。私の高校は海外との繋がりが強い高校というわけではなかったので、珍しい選択で周りからは驚かれました。
当時アメリカの大学とはだいぶ思い切った印象ですが、どういったきっかけですか。
最初は、東京外語大とか上智とか、そういったところで外国語を学ぼうと思っていました。
そうしたら、同級生のいとこの方でアメリカの大学に留学された方がいて、たまたまその方と話すチャンスがあったんです。そこでアメリカの大学という選択肢に初めて気付きました。学費の面でも悪くなく、外国語の取得と国際感覚を学ぶという意味で良いオプションかもと思い、アメリカ行きを決めました。
アメリカの大学を卒業した後は、九州電力に入社して、そこで国際交流関連の仕事をしました。そこで、ベトナムや中国といった開発途上国との仕事がおもしろかったんですよね。出張も喜んで行きましたし。そこで、改めて小学校の時の思いが蘇ってきたんです。そこでより具体的な仕事として、国連とか、JICAとか、NGOが候補に浮かんできました。
このときラッキーだったのは、福岡にUN-HABITATの事務所ができてたんです。そこで日本人職員の方にアドバイスを求めることができ、大学院に行くならコロンビアが良いだろうとか、具体的なアドバイスを得ることができました。
JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)に応募しようと思ったのも、このときですか。
はい。その日本人職員の方が、いきなり国連に空席公募で入るのは難しいからと言って、JPOという方法を勧めてくれました。その後、九州電力を退職してコロンビア大学大学院に留学し、大学院1年生のときにJPO試験に応募して合格しました。
JPOになって派遣されたのが、UNDPですね。
UNDPのベトナム事務所でした。ベトナム事務所のナショナルスタッフはとても優秀で、語学面でも経験値の面でも、自分との能力差に愕然としました。九州電力では相当鍛えられたつもりでいたのですが、自分は甘かったなと。
ただ、そうとばかりも言っていられないので、2年間のうちに経験を積み、ある程度自信がついてきた段階で、人とのネットワークを広げるという観点から、3年目はニューヨークの本部に異動させてもらいました。そこでその後の契約を獲得した、という流れです。
やはりJPOは2年間の勤務経験が保証されて、勤務経験を積みながら勉強ができる、という素晴らしい仕組みなので、国際機関で働きたい方には是非おすすめします。
最後に、国際機関を目指す方にメッセージを頂けますか。隈元さん、JSAG(ジュネーブ国際機関日本人職員会)の会長就任挨拶の際、「20年前の自分に伝えたいこと」というテーマで話をされていて、とてもしっくりきたのを記憶しています。今回も良いメッセージをお願いします。
それは良かった(笑)。
新しいことをしようと思ったときに、まず乗り越えて味方につけないといけないのが、私の場合は「自分」なんですね。何か大きな事にチャレンジする時には、「全身全霊をかけてやる。そうすれば大丈夫だ。」という自分に対する確固たる自信をもつ事が大事なんです。
私が日本で長く勤務した九州電力を辞める時、不安に感じた時がありました。でも、一度の人生、情熱をかけてやれる仕事に行きたいという強い思いがあり、次のステップに飛び込みました。そしてコロンビア大学に入学し、国連に入って国際問題の解決に向けて世界の人々と仕事をすることができている。それは自分への気持ちを奮い立たせたから、そして周りの大きな支えがあったからできたことだと感じます。不安に感じた自分を納得させて飛び込んだ訳です。
国連で働き始めてからも、大きな機会をもらうたびに、不安を感じるときもあります。でも躊躇せず、覚悟を決めて本気でぶつかっていく。そこで自信と経験をつけて成長していくわけですよね。
迷いや不安といった気持ちは自分をスローダウンさせる要因になり、それとは反対に覚悟や自信は自分を数段パワーアップさせる。自分のマインドコントロールの重要さを感じます。
20年前の自分に伝えるとすれば、迷うこともあるかもしれないけど、自分を味方につけて、自分を信じて覚悟を決めて全力でぶつかってみる、ということです。
実は今、JPOの応募期間(3/4まで)ですが、UNITARも1ポスト募集していますよね。
そうなんです。ぜひ多くの方に希望していただけたらうれしいです!
(TORはこちら→https://www.mofa-irc.go.jp/jpo/2024/jpo-unitar.html)
本日はありがとうございました!
(2024年2月、UNITAR本部のあるWMOビルにて 聞き手:工藤書記官)
難しい質問です。正直、自分は今でもワーク・ライフ・バランスが完全に取れているとは思わないです。2021年の秋からは、おおまかに言うと、夏・冬は広島、春・秋はジュネーブという生活をしていました。なので家族と仕事の両立とは程遠いのが現実でした。救いになったのは、夫も娘も自分の仕事中心の生活に理解を示してくれたことです。離れているときは毎晩テレビ電話で話をして、夫が家で娘を見てくれていました。日本でよくあった、父親が帰ってこなくて母親がワンオペ育児、の逆状態でした。
2拠点生活が終わってジュネーブ常駐になってからも、1年の半分以上は出張で世界を飛び回っていますが、仕事とプライベートのバランスを大切にしていきたいと思っています。今、部下が130人くらいいるのですが、部下には自分の働き方を示して、彼ら彼女らの良いお手本にならなければいけないという意識を持っています。特に若い世代は、非常に仕事と私生活のバランスを重視しているし、「なぜこの仕事をするのか」という意識も強いです。そういった部下達に対して、隈元美穂子という一人の人間としてどういう風に人生を生きているのかを示す必要があるだろうなと考えています。
子供と過ごせる時間も非常に限られていますが、仕事が終わってから子供が寝付くまでの短い時間を、どれだけ質の高いものにするかに気を遣っています。子供はあっという間に大きくなっていくので、今の瞬間を大切にして、子供の悩みをできるだけ聞いてあげて、安心感を与えることを大事にしたいと思っています。
国際機関で働こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
小学校の教科書です。小学校の授業で、国連のことが出てきますよね。あのときに、こんなところで働けたら良いなと思ったんですよ。そうそう、小学校の学年末の文集に、将来の夢として「外交官」と書いたこともありました。
でも、自分は福岡と大分で育ったのですが、当時は周りに国連で働いている人も外交官もいなかったし、何の情報もなかった。情報が無いと道筋が見えない。やはり情報や人のネットワークは重要ですよね。
その後、高校生の時、アメリカの大学への留学を決意します。私の高校は海外との繋がりが強い高校というわけではなかったので、珍しい選択で周りからは驚かれました。
当時アメリカの大学とはだいぶ思い切った印象ですが、どういったきっかけですか。
最初は、東京外語大とか上智とか、そういったところで外国語を学ぼうと思っていました。
そうしたら、同級生のいとこの方でアメリカの大学に留学された方がいて、たまたまその方と話すチャンスがあったんです。そこでアメリカの大学という選択肢に初めて気付きました。学費の面でも悪くなく、外国語の取得と国際感覚を学ぶという意味で良いオプションかもと思い、アメリカ行きを決めました。
アメリカの大学を卒業した後は、九州電力に入社して、そこで国際交流関連の仕事をしました。そこで、ベトナムや中国といった開発途上国との仕事がおもしろかったんですよね。出張も喜んで行きましたし。そこで、改めて小学校の時の思いが蘇ってきたんです。そこでより具体的な仕事として、国連とか、JICAとか、NGOが候補に浮かんできました。
このときラッキーだったのは、福岡にUN-HABITATの事務所ができてたんです。そこで日本人職員の方にアドバイスを求めることができ、大学院に行くならコロンビアが良いだろうとか、具体的なアドバイスを得ることができました。
JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)に応募しようと思ったのも、このときですか。
はい。その日本人職員の方が、いきなり国連に空席公募で入るのは難しいからと言って、JPOという方法を勧めてくれました。その後、九州電力を退職してコロンビア大学大学院に留学し、大学院1年生のときにJPO試験に応募して合格しました。
JPOになって派遣されたのが、UNDPですね。
UNDPのベトナム事務所でした。ベトナム事務所のナショナルスタッフはとても優秀で、語学面でも経験値の面でも、自分との能力差に愕然としました。九州電力では相当鍛えられたつもりでいたのですが、自分は甘かったなと。
ただ、そうとばかりも言っていられないので、2年間のうちに経験を積み、ある程度自信がついてきた段階で、人とのネットワークを広げるという観点から、3年目はニューヨークの本部に異動させてもらいました。そこでその後の契約を獲得した、という流れです。
やはりJPOは2年間の勤務経験が保証されて、勤務経験を積みながら勉強ができる、という素晴らしい仕組みなので、国際機関で働きたい方には是非おすすめします。
最後に、国際機関を目指す方にメッセージを頂けますか。隈元さん、JSAG(ジュネーブ国際機関日本人職員会)の会長就任挨拶の際、「20年前の自分に伝えたいこと」というテーマで話をされていて、とてもしっくりきたのを記憶しています。今回も良いメッセージをお願いします。
それは良かった(笑)。
新しいことをしようと思ったときに、まず乗り越えて味方につけないといけないのが、私の場合は「自分」なんですね。何か大きな事にチャレンジする時には、「全身全霊をかけてやる。そうすれば大丈夫だ。」という自分に対する確固たる自信をもつ事が大事なんです。
私が日本で長く勤務した九州電力を辞める時、不安に感じた時がありました。でも、一度の人生、情熱をかけてやれる仕事に行きたいという強い思いがあり、次のステップに飛び込みました。そしてコロンビア大学に入学し、国連に入って国際問題の解決に向けて世界の人々と仕事をすることができている。それは自分への気持ちを奮い立たせたから、そして周りの大きな支えがあったからできたことだと感じます。不安に感じた自分を納得させて飛び込んだ訳です。
国連で働き始めてからも、大きな機会をもらうたびに、不安を感じるときもあります。でも躊躇せず、覚悟を決めて本気でぶつかっていく。そこで自信と経験をつけて成長していくわけですよね。
迷いや不安といった気持ちは自分をスローダウンさせる要因になり、それとは反対に覚悟や自信は自分を数段パワーアップさせる。自分のマインドコントロールの重要さを感じます。
20年前の自分に伝えるとすれば、迷うこともあるかもしれないけど、自分を味方につけて、自分を信じて覚悟を決めて全力でぶつかってみる、ということです。
実は今、JPOの応募期間(3/4まで)ですが、UNITARも1ポスト募集していますよね。
そうなんです。ぜひ多くの方に希望していただけたらうれしいです!
(TORはこちら→https://www.mofa-irc.go.jp/jpo/2024/jpo-unitar.html)
本日はありがとうございました!
(2024年2月、UNITAR本部のあるWMOビルにて 聞き手:工藤書記官)